人は見かけによらない。
この花粉の季節になると,いつも鼻が詰まり肺に負担がかかってしまう。鼻をかんだり少しすすったりする時にキュッと通常呼吸の倍の空気移動が生じるからだ(個人的感覚である)。もう,花粉症というか鼻炎には十数年悩んできているが一向に治る気配がない。なた豆茶に挑戦したりと体質改善を試みるが,まだ敗戦続きだ。
肺気胸という病にかかったのは十数年前。一部では『イケメン病』とも呼ばれているらしいが、少なくとも自分に当てはまらない。その時の治療の影響なのか,この季節になると未だに肺がキュッと来るときがあったり,健康診断でいつも白い影が写り,CTをとってみるものの異常なしのパターンでD判定あたりを食らうのがここ数年続いている。。
気胸になった時,自分は大学生で卒業を間近に控えていた。いつものように研究室から自転車で下宿先に帰る途中だったが,胸がやや締め付けられる感じに襲われた。自転車道(歩道)は時の試練を経て劣化しており,自転車に乗っているとガタガタと上下で揺さぶられるのだが,寒さも味方してか振動の度に肺がキュッとなる。そして,なんだか肺活量も減っているような気がして,これほっとくと、
「やばいんとちゃうか・・・」
と本能的な嗅覚も働き,帰り道にある病院へそのまま駆け込み事情を説明。そのままCTとって医師の診察を受け,「これ,もれてるね」という感じで,どうも肺のブラという袋に穴が開いてしまい空気が漏れてしまっているらしい。そのまま一時処置で注射器みたいなもので肺の空気を除去?したみたいだったけれど,どうも様子を見た方が良いということでそのまま入院することとなった。「やばい,卒業間に合うか・・・」と正直焦ったが,通常1週間もすれば退院できるらしく,幸い父が近くに住んでいたこともあり、とりあえず父にも連絡し身支度して入院することとした。
6人部屋くらいの部屋に入り,翌日肺に漏れた空気を抜く「脱気」という処置をすることとなった。手術するのかと心の準備をしていたが,どうやらよく聞くと処置はそのままベッドの上で厚手のタオルケットのようなシーツを敷き,処置部の肺に近い脇くらいの位置にメスを入れ,小さなドレンのようなものを差し込むというものであった。主治医の先生以外にも研修医のような方も数名居て,研修的な説明交えての処置だったのでやや恥ずかしさもあったが,そんなことよりも初めてのことに対する恐怖の方がはるかに勝っていた。
麻酔を打ち,メスが入った,そしてちょっとして,そろそろドレン・・来るな・・・と思っ・・・・・・はぅぐぅっ!?
叩かれたり,つねったりとかそういった痛みではない今まで味わったことのない鈍痛を一瞬感じた。ドレンのようなものは吸引器みたいな機器に繋がっており,吸引器はまるで何事もなったかのような顔をしてポコポコと音を発し自分の仕事にいそしんでいるようだ。しばらく肺にドレンを刺したままの状態でいるらしい。動かすと激しい痛みを感じるので,ほぼベットの上で寝ている状態だ。動くと痛いのでトイレ以外は動きたくないし,トイレにも行けないほどの痛みだ。しばらくすると,麻酔もきれてきたのか,尋常じゃない痛みを感じるようになった。体を動かすとドレンがぐりっとなりさらに痛いので,極力同じ体制をキープしながらとかなり厳しい状態が続いた。食事になってもあまりの痛みで起き上がれないし,手も持ち上げられない。とにかく時間が経つのが遅い。その日の夜は,麻酔が切れてあまりの痛さで眠れなかった。声も出ないくらいの痛みで,呼吸も小刻みで歯を食いしばり全身汗びっしょりになっていた。今思うと痛み止めを打ってもらえば少しはマシになっていたのかもしれなかったのだが,こういうものなんだと思い込み,ひたすら朝になるのを待っていた。
夜間ずっと痛みと格闘しながらもようやく翌朝を迎えた。やや痛みが和らぎ余裕が出てきたので改めて病室を見渡すと,ビーバップハイスクールのような感じのやや怖め?な感じの方が二人同室にいるではないですか。話のやりとりや様子から察するに兄貴と弟分(以降兄貴,弟君、敬称略)みたいな感じだ。田舎育ちのガリ勉少年だった僕は,からまれまいと思いベッドでひたすら静かにしていたが,そうもできなかった。
思いもよらぬ間接攻撃をくらったのだ。
看護師さんが検査の時間で病室にやって来ると,突然兄貴のファッションチェックが始まるのだ。そう,昔テレビ番組でやっていた「辛口ピーコのファッションチェック」である。町中の一般の方がピーコさんにファッションチェックしてもらうというコーナーなのだが、決まって辛口な評価で大体はコテンパンにされるのだ。おそらく,兄貴はその番組の影響を受けて,真似していたのだろう。完全にピーコのコピーをし,制服とも言える看護師さんの白衣にピーコばりのダメ出しをするのだ。僕は心の中で,「いや,看護師さんみんな同じ格好やん」と突っ込みつつ静かにしていたのだが,兄貴は毎回看護師さんが来る度に辛口ファッションチェックをするので、段々と笑いをこらえなくなってきてしまった。看護師さんは毎度のことか「はいはい」と受け流すのだが、兄貴も負けない。時々弟君もピーコかおすぎ?になりきり参戦し試合は続くのだ。やばい、笑いをこらえきれない、というよりも笑う度にドレンが肺を痛めつける。勘弁してくれ、笑うと目をつけられるかもと思い、力みながら堪えていたが、最終的には素直に笑った方が楽だった。僕は力を抜いて静かに笑った。兄貴も弟分もこっちに気づいてはいるようで、笑ってる様子を見てさらに調子が上がってるように見えた。ファッションチェックが一息つくと,いつものように車椅子にのり病室の入り口に待機し看護師さんか誰かをイジっている。
それからしばらくすると、なんとか痛みはあるもののよちよち歩ける状態になった。特にすることもなくベッドで大人しくしていると、弟君が持っていたゲーム機を「これ貸してあげるよ」という感じで僕に貸してくれたのだ。”からまれる”とか”怖い”と思っていた僕はなんと浅はかだったのか。兄貴は他の患者さんとも話したりと色々とコミュニケーションをとっていたり、自然と病室も和やかな感じになっていた気がする。兄貴や弟君のモノマネショーもあってか退院まで長くは感じなかった。兄貴や弟君よりも後に入院し,彼らより早く退院することとなった。僕は,「お世話になりました」と挨拶をし病室を後にした。
もちろん静かにして欲しい方もいらしたかもしれないが(そんなにうるさくもない)、僕にはなんだ物静かで暗い感じの部屋よりはこんな感じの方が好きだ。彼らから、”人は見かけによらない”ということを学び、何かあったかい感じとか勇気をもらった気がした。あれから十年以上経つが、今でも強く印象に残っている。
後で両親がタクシーの運ちゃんから聞いたようだが、あまり良い評判ではない病院だったらしい。。どうりで,兄貴がこれから手術だというおじさんに「無事に帰っておいで」的なニュアンスのことを言っていた気がした訳だ(本当に重い病だったかもしれないが,そうだとしたら兄貴の心の臓もすごい)。
完治とはいかず,若干胸に引っ張られるような違和感もなくもないが、元の生活に戻れるまで回復したのだから良しとしよう。そして,無事に卒論も提出し卒業することができた。
兄貴と弟君どうしてるかな。ふと昔を思い出し筆をとったのであった。
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